2014年11月1日土曜日
2014年10月13日月曜日
2014年10月6日月曜日
2014年10月4日土曜日
2014年9月24日水曜日
金の蝶々
深山奥山だより 9月20日5度 マイマイ蛾が不思議な事に沢山の幼虫発生後見あたらなくなった。蛾がいないのだ。蛾になる前にウイルスの流行で自滅したのではと言われている。オスは小さくて茶色の蛾で日中どこでも大量に舞っていた。どこの家にも昆虫採集の網が用意され、思わず童心にかえってマイマイのオスを追いかけた。夜はメスが卵を産みつけるので灯りが外に漏れないように工夫した。外灯も消したりLEDライトに取り替えるなど万全を期したけれど不思議な事に蛾が少なくて一安心した。日中お店の玄関にマイマイのオスが入って来たかと構えたが違ったのでやりすごした。夕方主人が金の蝶々を見つけたと言って捕まえてきた。昼にやりすごした蝶だった。なんと金色の蝶々〓感動した。
2014年9月8日月曜日
2014年8月29日金曜日
河原の石と鉄筋クラフト
深山奥山だより 8月29日15度 先日 一色川も避難勧告が出て暴れ川となった。堤防のあちこちが決壊したが人家や人命に被害はなかった。後日川の様子を見に行った主人が、思わぬ副産物を拾って帰った。まん丸い石だ〓よほど激しい過去があったのか、角が取れてまぁるくまん丸〓側で見ているだけで 心が和む。弦楽器の鉄筋クラフトの傍らで今は楽しい歌を歌っている。
2014年8月28日木曜日
下駄ならし盆踊り
深山奥山だより 8月28日16度 久しぶりのたよりは、もう秋の足音が聞こえている。8月14日 近くにある踊殿で下駄鳴らし盆踊りが盛大に開催された。少子化で若者が少なく秋祭りの前夜祭の地芝居が無くなってから何年かが過ぎた。その後この一色地域に地域興し協力隊の方が住み着いた。一家で引っ越してみえ、あらゆる事に積極的に取り組んでくださる。有り難い若者の登場によって昔ながらの盆踊りが復活した。そしゃおどらん会が主催し、一色地域にある踊殿で荘川甚句や荘川千本つき、荘川えっさえっさなど、下駄を踏み鳴らして賑やかに開催された。この踊殿はかつて、三島勘左衛門正英が建てたもので茅葺きの屋根下に色とりどりの提灯が飾られ久しぶりの盆踊り唄が聞こえてきた〓勘左衛門さんもさぞかし懐かしんで聞かれた事と思う。
2014年7月22日火曜日
2014年7月18日金曜日
再び山笑う
深山奥山だより 7月18日16度 久しぶりの便りはマイマイ蛾の大発生について〓白川村、飛騨地方近辺は大変な事態になっている。しかし高松塚古墳で発見された壁画美人は蛾美人と言われると聞いた。眉毛が蛾の幼虫のようになっている。渦を巻くような眉毛が蛾美人。そう思うとまんざらでもない気がしてくる。大量の幼虫に食べられ裸木になっていた山々が、再び再生し新芽が芽吹き出している。まるで五月の山笑う季節のようだ。今頃は濃い緑一色の山々になっているが緑の濃淡が再び蘇って、自然の力を感じる。やがてさなぎから蛾になって夜には驚く程の光景になるだろう。ヒッチコックの鳥のように〓
2014年6月11日水曜日
2014年5月31日土曜日
埋もれた記録
深山奥山だより 5月31日7度 上滝金山あたりの山並みも緑が日に日に濃くなっている。金山の歴史〓天正十三年以前の記録が欠落している。いうまでもなく、大地震で帰雲城が埋没し、内ヶ嶋氏理の居室のどこかに秘蔵されていた絵図、記録、城郭の内部、地下にあったであろう金銀鉱山物の倉庫も地下に眠ってしまったからだ。いっさいは秘密であった。大名も一個の企業である。機密が厳守できれば、もし戦いに破れても取引できるからだ。金鉱の正確な所在地、採取の方法、産金量、倉庫、工場の場所、主な技術者の名前、住所、いっさいが他国には機密であった。他国ばかりか、城内の人たち、親類でも、あるいは知らされなかったろう。全体をつかんでいるのは、当主と技術者のほか、何人いただろう。〓佐々氏は書いている。
2014年5月24日土曜日
向牧戸城に連なる山々
深山奥山だより 5月23日7度 白川郷は宝の山だった。内ヶ嶋氏は、三代120年、宝の山を懐にして、戦国不在の繁栄を楽しんできた。これから、というときに、何という偶然、何という悲運、戦争ではなく、十六世紀最大の激しい地震と地震によって起こった帰雲山の山崩れで、帰雲城もろとも内ヶ嶋、白川王国は埋没したのである。日本地震資料の年表に、こうある。天正十三年十一月二十九日。山城、大和、河内、摂津、備前、三河、伊勢、尾張、美濃、飛騨、近江、越前、加賀、紀伊、讃岐。越中木船城崩ル、飛騨白川谷ニテ死者三百人、近江長浜、美濃大垣震火、余震年ヲ越エテ止マズ。この同じ地震で京都も大きな被害を受けた。三十三間堂の仏像六百余体がことごとく倒れた、と貝塚日記に記されている。まぼろしの帰雲城より〓
2014年5月22日木曜日
2014年5月6日火曜日
蕎麦屋がイメージチェンジ
深山奥山だより 5月6日0度 式部の庵が更にカントリーの店にイメージチェンジ。ライブの出来る店に又一歩近ずく。イスとテーブルが増えるたびに若かりし頃、銀座に通ったシャンソン喫茶銀巴里を思い出す。今は思い出の中でしか行けなくなって残念〓貴重な体験をさせていただいた。ライブハウス式部の庵へぜひいらしてください。
2014年4月26日土曜日
介護生活
深山奥山だより 4月26日0度 実家の母が退院してから介護生活に突入〓生活環境と時間の配分が変わった。変わった分だけ新しい発見があり、今までとは違う感動〓景色〓味あらゆるものが新鮮な体験。全ては人に成るための修行か。母に感謝する。実家に泊まり明け方4時半過ぎに嫁ぎ先に戻る。まだ醒めやらぬ空に三日月と星がひっそりと寄り添っている。しらじらと明ける朝焼けの空の色〓母は車イス生活になると言われながら、予想に反して嬉しい事に杖無しでも歩けるようになった。大好きなインコのかりんちゃんとも一緒に暮らせるようになり幸せな日常が戻ってきた。母にとっての新しい体験はデイサービスのお世話になること。これからどんな世界が見えるのだろう〓
2014年4月23日水曜日
平和の文化と子供展
深山奥山だより 4月19日マイナス1度 いよいよ荘川支所で平和の文化と子供展が18日から200日まで始まった。創価学会県女性平和委員会主催 子供展実行委員会として準備を整えての開催〓天気予報では雨模様のはずが今朝は雲一つ無い日本晴れ〓嬉しい大はずれで、地元以外にも白川村や高山市内からも見えて大好評。未来を担う子供達の幸せこそが世界平和を生み出す原動力〓いかに幸福な子供達の環境を整えるか。それは大人達の責任。叱って育てるよりほめて育てよ〓自己肯定感のある子供達は人間関係も円滑とパネル展示で提示。 最終153名の方々がお忙しい中訪れてくださった。心に残った学生の詩 〓おやじ言いたい事があったら言えよ〓おふくろ言いたい事をそのまま言うなよ〓 だった。
2014年4月20日日曜日
2014年4月18日金曜日
2014年4月17日木曜日
子だぬきがやって来た。
深山奥山だより マイナス5度 毎年今頃になると子だぬきが山から食べ物を探して下りてくる。ボイラー室の中に何かがうずくまって眠っている。ムサシ君やクロちゃんはそれぞれの寝所でグーグー〓よく見たら子だぬきだった。気がつくと奥の物陰に隠れてしまう。二三日居候をしてどこかに逃げていった。ムサシ君達は平気な顔をしている。犬や猫なら大騒動になるけれど、子だぬきは黙認か〓なんとも不思議な関係だ。春ももうすぐそこまで来ている。
2014年4月16日水曜日
恐るべき偶然
深山奥山だより 3月18日0度 氏理が越中に出兵して四年、白川帰雲城は、戦国制覇の争いに巻き込まれていた。領民は、不安に包まれ、平和を願っていた。降伏したとはいえ、本領は安堵された。白川郷に四年ぶりで平和がよみがえるのだ。領民ぐるみの盛大な祝賀会が計画された。明日能興行〓明日とは11月30日のことだ。帰雲城内は、祝賀会、宴会、余興の準備でにぎわっていただろう。多くの家臣が城内でそれぞれ分担した任務をかたづけ、疲れ熟睡していた。亥の刻だとすれば、夜10時すぎごろ。寝入りばなである。マグニチュード8以上の列震が襲う。岩石が山津波となって崩れる。城内で、城下で眠っていた内ヶ嶋氏、家臣、住民は、眠りから目覚めるひまもなく埋もれたのかもしれない。佐々氏は恐るべき偶然と書いている。言葉にならない〓
2014年4月11日金曜日
深山奥山だより 3月17日マイナス8度 内ヶ嶋氏とは、敏達天皇から橘氏、楠氏、さらに楠氏から足利末期、内ヶ嶋を名乗った家柄で、市村家は、帰雲城の惨劇で死を免れた内ヶ嶋氏の末裔である。市村氏からの手紙にはその系図が書かれている。だが、内ヶ嶋三代、120年。初代為氏、二代雅氏、三代氏理、その肖像画もなく、人柄を示す逸話もなく、初代と二代目が何歳で、どんな理由で死んだか、いずれも、帰雲城とともにナゾである。内ヶ嶋兵庫頭氏理は天正10年から越中富山に出兵。天正13年まで約4年、越中に陣を張った。地元を留守にしている間に、金森長近が白川郷南部に進出。あわてて帰国してみると、ことごとく金森方になびいている。状況が変わったのだから金森に降参しなさいと、側近がすすめたと解釈すべきか。牧戸城主川尻備中守氏信が、飛州志によれば、帰雲城で圧死している。もし川尻氏で金森氏に通じたものがいたならば、後に金森氏に仕えた氏信の子勘平であろう。勘平は地震のとき、京都に遊んでいて無事
であった。父子ノ取リチカヘ成ルヘシと飛州志にある。と書かれている。
であった。父子ノ取リチカヘ成ルヘシと飛州志にある。と書かれている。
2014年4月8日火曜日
天生金山
深山奥山だより 3月16日マイナス3度 佐々氏は、四回目白川行きの帰りに白川村の北端から東への天生峠越を。今は亡き松古等さんのマイカーで天生金山へと行かれた。指さされた場所は奥飛騨横断道から、相当ひっこんだ山地にあった。いまは、とうに廃抗。あんな深いところに、戦国の世に、金山があり、鉱夫が働いていたとする。その人たちは、どこからこの奥飛騨にきて、どこで暮らし、生涯をまっとうしたのか。このあたりに集落はいまでもない。河合村と白川村の中間。この二つの村に、そんな労働力があったとは思えない。鉱夫たちは、どこからきて、どこで果てたのか。同行の児玉先生に伺うと、生きて帰れなかったかもしれませんねといわれた。恐ろしいところだ、飛騨は。私は小京都といわれる高山市に着くまで、天生金山のことが念頭を離れなかった。とある。余程の衝撃を受けられたのだろう。今は夏になると外来種の駆除作業に森林組合の人たちが汗水流している。
2014年4月7日月曜日
明暗を分けた。
深山奥山だより 3月15日マイナス9度 帰雲城崩落の翌日、つまり11月29日の昼頃、帰雲城のある保木脇で能興行が開催されることになっており、川尻氏信は、前夜から帰雲城に泊まった。荻町城主山下氏勝は、鳩谷から保木脇までは、三里しかないので、早朝たてば間に合う、朝たつことになっていて難を免れた。たったそれだけの偶然が、川尻と山下の暗と明を分けた。山下氏勝は、のちに尾張義直の側近に仕え、今日の名古屋城建設を家康にすすめ、飛騨の田舎武将から中央政界に雄飛する〓佐々氏は庶民らも、この天変地異には、運命の非常さを感じないではおられなかったであろう。と記している。
その時牧戸城主川尻氏信は
深山奥山だより 3月14日マイナス3度 白川帰雲城は、陸の孤島であり、天然の要塞。もし、地震がなければ、国道156号西側の丘陵地帯に、雄姿を拝むことができたかもしれない。白川帰雲城の崩落は、牧戸城にも伝達されたであろう。牧戸城は、勇将川尻備中守氏信がいて、東南の守りを固めていた。天正13年のその時、川尻氏信は、牧戸城はどうなったのか。この時氏信は帰雲城にいたために亡くなった。その息子は、京都にどういうわけか遊んでいて助かった。後で、金森長近に仕えている。と佐々氏は書いている。
2014年4月2日水曜日
越中国名跡志
深山奥山だより 3月13日マイナス1度 帰雲山崩落時、大地震が濃尾、京阪神地方を連続して襲っていた時期であった。京都、三十三間堂の仏像六百体が、いっせいに倒れた天正大地震と同じ地震で、帰雲城は亡びた。この時白川からどこか他国へ出かけていたものが四人いた、とある。災害の知らせを聞いて白川に戻ったら、淵になっていた、というのだ。淵とはいうまでもなく、せき止められた庄川が、埋没地点から上流に、巨大な湖となっていたことを意味する。日本地震資料によると、約二十日間だから、災害の直後に白川に戻ったのだろう。一方、これを裏付ける資料が、富山県側にある。越中国名跡志という郷土史誌だ。これは隣国飛騨で起こった惨事について記録した末尾に、富山へ物を売りに出かけていた人だけが助かり、いったん白川に戻ったが、どうしようもないので、富山にもどってきた、とある。
子孫がたくさんいれば
深山奥山だより 3月12日マイナス9度 なにか、災害があり、子孫がたくさんいれば、何百年、千年以上たっても、伝説のようなものでも、子孫はお祭りをする。ところが、白川帰雲城には断絶がある。世に伝えたり、あるいは、史実を事実として掘り起こしたりする原動力が、地域社会にない。いかに外部の研究者やファン、さらには野心家が騒いでも、世に普及するパワーに欠ける。掘るにしてもバックアップがない。そういう視点からも死角にあることをさとった。と佐々氏は書いている。対岸の火事のようなものか。ロマンのまま眠り続けている。
2014年3月25日火曜日
供養の桜植樹
深山奥山だより 3月11日マイナス14度 佐々氏は三回目の白川行きを果たした。松古さんの便りで、大野富太さんたち保木脇の住民が、地下に眠る遺体を慰めるつもりで、桜の若木を災害の現場に植樹した、という。三百八十年前の地下に眠る被災者へ、慰霊のための植樹。再び帰雲城について語り合った。大野さんによると、城の場所は松古説とは逆に、国道の東側、私が、死の谷と仮に命名した盆地とみているようだ。大野さん方など三戸は、いずれも国道の、東側にある。盆地は、保木脇の小部落から百メートル内外にあり、おそらく、大野さん方などの住家も被災地の上に建てられたものだろう。親からのいい伝えで、埋まったことは聞いているし、間違いない。丘みたいな土の盛り上がったところ。山の崩れかたから、どうもあのへんに人家があったと思う。供養の意味で、桜の苗木を二十本植えた。しかし岩石と土砂のかたまりとうとうみな枯れてしまったという。庄川の広い河原に出る。庄川は、保木脇では東、帰雲山側の山のふもとに寄っている。国道は
西側の山のすそを走る。庄川の河原が広いのは、やはり災害のせいだと思う。佐々氏はこう書いている。3月11日災害は歴史の中で繰り返し起きている。ご冥福をお祈り申し上げます。
西側の山のすそを走る。庄川の河原が広いのは、やはり災害のせいだと思う。佐々氏はこう書いている。3月11日災害は歴史の中で繰り返し起きている。ご冥福をお祈り申し上げます。
まぼろしの帰雲城
深山奥山だより 3月10日マイナス12度 何故いままであまり知られず、また、掘られなかったか。埋没したと言われる辺り、巨大な岩石が散乱し、倒木、雑木雑草のもつれている一キロ四方の現場を、どこからどう手をつけたらいいのか。とても、一人や二人でどうなるものでもない。第三の理由は単純明快。記録の不足、ゴールドについての記録である。天正十三年の災害については、多くの資料がある。地震があり、山津波があったことは多くの資料に記されている。しかし、帰雲城主であった内ヶ嶋三代の記録がほとんど存在しない。戦国時代に内ヶ嶋氏が、帰雲城にあって、金銀を含む鉱山物とどのようにかかわっていたのか。その肝心な点がはっきりしない。と当時の佐々氏は書いてみえる。
2014年3月24日月曜日
まぼろしの帰雲城
深山奥山だより 3月8日マイナス11度 3月9日マイナス12度 佐々氏は松古孝三さんと宿で帰雲城について話し合った。かえりくも、きうんとも言います。標高1600メートルぐらいの高い山です。南風が吹くと、雲が峰にぶつかって帰ってゆく。返雲と書かれた記録もあります。庄川の河原は保木脇のところで、変なふうに広くなっています。城は庄川の西側あるいは、国道の西側にあったとみられます。又合掌造りとの関連でもあきらかのように、今の白川文化は、江戸時代中期元禄ごろからのもので、被災してから百年近くたって、北陸側と美濃側から、ぼつぼつ白川に入植した。現に保木脇に住む大野さんらも、いわばよそもので、亡びた先住者とは関係がない。と書かれている。全く知らなかった。震災は忘れた頃にやって来る。
2014年3月22日土曜日
保木脇の住民
深山奥山だより 3月7日マイナス9度 佐々氏の本によると、保木脇に住んでみえる大野さんは語られた。帰雲城が埋没〓全て埋没した後は誰もいなくなった。現在の住人は私達はじめ皆その後移り住んだ人達だ。帰雲城がいつまでもまぼろしのまま解明されない理由の一つに皆全滅してしまった為に子孫がルーツをたどるという事がない。多くの人達が生き延びていれば必ずその子孫が歴史を掘り出すはずだ〓と又交通網が整備されていないために長年陸の孤島になっていたこともその理由ではないかと書いてみえる。なるほどと思った。どこかで生き延びた人達の子孫がいつの日か必ずや真実の歴史を解明してくださると確信した。
まぼろしの帰雲城
深山奥山だより 3月7日マイナス9度 白川村荻町で旅館を営んでみえる城山館は家族で真心のおもてなしをしてリピーターの方々も多い。宿の待合室に置かれていたまぼろしの帰雲城の本をお借りした。著者の佐々克明氏は最初朝日新聞記者として飛騨の民家、白川郷の切妻合掌造りを取材するために白川郷を訪れた。城山館の初代松古孝三さんに出会い帰雲城を聞いた事がきっかけでこの本が生まれた。あのドイツの建築家ブルーノタウト氏の日本美の再発見にも合掌造りの素晴らしさが書かれてあるけれど、松古孝三さんが26歳の時ブルーノタウト氏に会われたことは全く知らなかった。佐々氏の目と足で取材した帰雲城の言い伝えなど地元の方々との交流を通して得た情報を元に出来上がった本だ。真実の歴史はどこにあるのかまぼろしの帰雲城〓
2014年3月18日火曜日
2014年3月13日木曜日
耳の日
深山奥山だより 3月3日マイナス3度 今日は耳の日でもある。義父母も実家の母も耳が遠くなり補聴器のお世話になっている。実家の母は脳梗塞になってから急に耳が遠くなった。テレビの音をいっぱいに上げて会話をするのにものどが痛くなる。嬉しいことに知人から補聴器を頂いた母の耳にインコのかりんちゃんのしゃべる声が聞こえた。カラスが鳴いた、水の音が聞こえたなど、日頃当たり前のように聞いているあらゆる音が母には聞こえていなかったんだとあらためて知った。補聴器の有り難さが身に沁みてわかった。私も声を張り上げて話さなくてもよくなりのどを痛めることもなくなった。知人に感謝感謝〓耳の日に感謝
2014年3月9日日曜日
解禁日
深山奥山だより 3月1日マイナス1度 弥生 今日は待ちに待った釣り人達が朝早くから川に入っている 。気温も高めで解禁日は大盛況。橋の上から放流もしている。実家の隣のおじさんも漁業組合員として忙しくなってきた。毎年釣りに見えるお客様に惣則橋から今朝放流していたよ〓とお伝えしたら放流した魚は釣らないといわれる。荘川の流れの早い川で逞しく育った魚はひれが立派に発達している〓そんな魚を釣りたいと。そう言えば何年か前お店横に流れている小さな谷で捕まえた岩魚は大きかった。ひれも立派でつい見とれてしまった。岩魚の肌のつるりんとした滑らかさが又素晴らしかった。
2014年3月8日土曜日
湖畔の宿
深山奥山だより 2月28日マイナス2度 二月も今日でおしまい〓早いもので寒い寒いと叫んでいるうちにいつの間にか春がそこまでやって来ている。指折り数えているうちはなかなか来ないけれど、何かに気を取られていると早いものだ。先日楽しい座談会をした。五十音の書いた紙を配り自分に当たった文字から歌を歌うと言うもの〓みんなで探してけっこうあるものだなと思った。童謡歌詞が多い。らから始まる歌が見つからない。最後までわからなくて終わった。何日かして思い出した。湖畔の宿の二番に〓ランプ引き寄せふるさとへ書いてまた消す湖畔の便り、胸の痛みに耐えかねて昨日の夢と焚き捨てる古い手紙のうすけむり〓何故かお風呂に浸かっていて思い出した。一番が思い出せなくて二番が出てきた。記憶というものは面白いものだ。
2014年3月7日金曜日
山野草の天ぷら材料が届いた
深山奥山だより 2月26日 マイナス10度 名古屋市内に住む知人から山野草の天ぷら材料が届いた。荘川はまだ深い雪の下〓大助かり。からすのえんどう、ヨモギ、春野げし、ハルジオン、かきどおし、ハコベ、タンポポ、ギシギシ、スイバ、など春の香りをいち早く届けてくださった。持つべきものは友〓有り難い。感謝感謝。
2014年3月5日水曜日
この冬はよお冷えたなあ
深山奥山だより 2月25日マイナス6度 少し春めいてきた。雪解けの音、小鳥の鳴き声、残雪を溶かす作業の音いよいよ春が近くなってきたと感じる音だ。土が見え始めると草の香りがどこからともなく春を運ぶ。積雪が少ない分凍みが強くて今年の冬は寒かった。よおー冷えたなぁが挨拶代わり。少ない積雪でも寒ければなかなか雪は消えない。解禁までに後わずか〓
2014年2月27日木曜日
2014年2月25日火曜日
遠い昔の光景
深山奥山だより 2月20日マイナス16度 前日の東京帰りであらためて雪国に棲んでいるんだなと思った。積雪2メートル以上あっても、昨年の半分で有り難いと感謝する。備えがあるから苦にならない。都会に降る雪は本当に大変だと思った。除雪機や道具すらない中でさぞかしご苦労された事とお見舞い申し上げます。幼い頃まだ除雪機も便利なスノーダンプもなく、道路から雪の階段を降りて家の中に入ったり、二階の窓から出入りしたり飼い犬が二階の屋根を走っていた事など思い出す。吹雪いている日は人っ子一人だあれも通らず、ただコタツに入って吹雪いている道を眺めていた事も昨日の事のように思い出す。関東地方を襲った豪雪の様子を見ながら、遠い昔の光景が重なって切なくなった。
2014年2月24日月曜日
久しぶりの上京
深山奥山だより 2月18日マイナス8度 中央道の雪害通行止めのため高山発新宿行き高速バスを急遽新幹線に変えて慌ただしく羽島へ向かう。久しぶりの上京は快晴でも冷たい風が体感温度荘川と変わらず〓新宿で一泊ホテルでは海外からの観光客がほとんど。高山でも白川郷でも同じ様な光景にあらためて世界が近くなったと感じた。夜主人のお目当てのカントリーバー居留地に行く。小さな目立たないお店だけれど、尾崎紀世彦、小坂一也、坂本父娘 など壮そうたる方々が常連さんで見えたお店だった。二代目ご主人がきさくに話してくださった。ライブの日ではなかったので、のんびりと話に花が咲いた。東京の夜はカントリーな風が吹いていた〓
化石フォーラムでの話より
深山奥山だより 2月17日マイナス12度 荘川は化石が発見されることでも有名で、毎年化石フォーラムが荘川支所で開かれている。京都大学教授の調査発表によると、荘川地内の黒谷、惣則、猿丸、新渕、中畑、牧戸地域の地下は一億年近く全く動いていない。鉱山のある所は土地が動いているようだ。そのように話されたと伺っている。式部の庵の一色地区から元スキー場そして高鷲、明宝方面はあの天正大地震にあるとおり、牧ヶ野、山田、赤崩、水沢上などの伝説が残っている地域だ。鉱山で使われたとみられる石臼が牧ヶ野道場跡五輪の塔の石積の一つに使われている。
2014年2月18日火曜日
おつうちゃんは無関心
深山奥山だより 2月15日マイナス3度 今日は大荒れの一日〓再び太平洋側に低気圧が接近。関東地方に多大な積雪の被害。荘川は積雪30センチ 風がビュービューと吹いて雪が舞い上がる。今夜は全トヨタ労連荘川雪まつり。500円の申し込みで地元の家族も先着100人飛騨牛、猪鍋、焼きそば蕎麦など食べたい放題〓名古屋市内からの家族連れが一晩泊まりで荘川を訪れ毎年開催される。横なぐりの雪にも負けず巨大な雪像滑り台に上って滑り降りたり楽しそう。今夜は雪国の雪の怖さを体感する雪まつりになりそう。おつうちゃんは風よけの踊り場で無関心〓
ホワイトチョコのような月
深山奥山だより 2月14日マイナス7度 今日はバレンタインデー近くの酒屋さんで毎年買う。お世話になった人やチョコ好きな母、感謝の心をちょこっと託して渡す。今流行りの自分への労いチョコは少し贅沢に〓一粒ほおばると今年も又一年元気で頑張るぞとエネルギーがわいてくる。バレンタインデーは自分への密かなご褒美の日でもある。甘い言葉はニャンコちゃんにかけながら〓
ダイヤモンドダスト
深山奥山だより 2月11日マイナス16度 冷え込みが強く晴天の日はダイヤモンドダストが見られる〓でも一度も見た事がない。なんとしても見たいと思い車を走らせた。三谷から六厩へ向かうトンネルの二つ目と三つ目の間の直線道路の脇に車を止めて表へ出た。ちょうど朝日が射してきた。キラキラキラキラと川霧が氷の結晶となって光りながら舞い降りてくる。初めて見るダイヤモンドダスト〓夢を見ているような信じられない世界。透明な金属音が聞こえる気がした。感動を目に焼き付けて実家に戻ると、ここもマイナス10度以下。朝陽が射してきた。なんと玄関前の駐車場に立っていたら向かいの谷辺りからキラキラキラキラ吹き上げるようにして舞い降りてくるのはダイヤモンドダスト〓この気象条件と時間帯が重なればこんな身近な所でも見られるんだ〓念願が足下にあった。人生も足下を掘れ〓その通りだと思った。
2014年2月17日月曜日
2014年2月15日土曜日
道の駅桜の郷荘川の雪像
深山奥山だより 2月7日マイナス11度 今年も桜の郷荘川の道の駅に雪像がお目見えした。ひだ荘川ふるさと祭りで有名な日本一の連獅子の雪像 〓昨年より更に素晴らしい出来映え迫力満点〓いつもこの絵心ある地元住民の技とアイディアには敬服する。雪降りの朝はまだしも雨になったら大変〓今年は雪不足で更に大変と思いながら行き来する。
2014年2月14日金曜日
2014年2月13日木曜日
2014年2月11日火曜日
内ヶ島が名付けた帰雲城
深山奥山だより 2月3日マイナス3度 内ヶ島が名付けたとされる帰雲城は、 杜甫の返照 の中に楚王宮北正に黄昏なるに、 白帝城西過雨の痕、返照江に入りて石壁に翻り、帰雲樹を擁して山村を失す。中国四川省長江の上流の白帝城付近を詠んだもの〓そこから名付けたと言う。内ヶ島の中に文人がいたのではないかと。高い文化が根付いていた証。真実は果たして内ヶ島の誰が詠んだのか、それとも他に影響を与えた文人が見えたのか、帰雲城は霧の中〓
2014年2月10日月曜日
2014年2月9日日曜日
2014年2月8日土曜日
2014年2月5日水曜日
2014年2月4日火曜日
2014年1月31日金曜日
ひるがの高原は青春の象徴
深山奥山だより 1月21日マイナス6度 久しぶりにひるがの高原に出かけた。スキー客でにぎわっている。大日岳スキー場の夜景がとてもきれい〓雪はやはり少ないけれど青春時代の楽しかった思い出がよみがえってくる。スキーが面白くて一人でバスに乗ってでも通ったひるがの高原〓秋は自転車に乗ってサイクリングひるがの高原は青春時代の象徴
2014年1月27日月曜日
2014年1月24日金曜日
2014年1月19日日曜日
テレビが大好き猫くん
深山奥山だより 1月18日マイナス16度 ムサシ君はじつに面白い猫くんだ。大好きな鬼ごっこ遊び、そして大好きなテレビ〓特に動物が出てくると、近くまで移動して真剣に見ている。気に入った画面を見つけると、耳を立ててじーっと身じろぎもせず見ている姿に笑いが止まらない。朝から笑わせてくれる面白い猫くんに感謝〓
ストーブは有り難いにゃーん
深山奥山だより 1月16日マイナス11度 冬の寒さにも負けず猫ちゃん達も頑張っている。と言ってもほんの一時飛び回るだけで一日のほとんどをこたつの中や、ストーブのそばに陣取ってグーグー眠っている。ムサシ君は表を走り回って家に入ってきた。ストーブのそばにまっしぐら〓ヒヨコちゃんを背中に乗せても反応なし。冷えた身体がじんわり暖まって有り難いにゃーん〓
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