2014年4月26日土曜日

介護生活

深山奥山だより 4月26日0度 実家の母が退院してから介護生活に突入〓生活環境と時間の配分が変わった。変わった分だけ新しい発見があり、今までとは違う感動〓景色〓味あらゆるものが新鮮な体験。全ては人に成るための修行か。母に感謝する。実家に泊まり明け方4時半過ぎに嫁ぎ先に戻る。まだ醒めやらぬ空に三日月と星がひっそりと寄り添っている。しらじらと明ける朝焼けの空の色〓母は車イス生活になると言われながら、予想に反して嬉しい事に杖無しでも歩けるようになった。大好きなインコのかりんちゃんとも一緒に暮らせるようになり幸せな日常が戻ってきた。母にとっての新しい体験はデイサービスのお世話になること。これからどんな世界が見えるのだろう〓

2014年4月23日水曜日

平和の文化と子供展

深山奥山だより 4月19日マイナス1度 いよいよ荘川支所で平和の文化と子供展が18日から200日まで始まった。創価学会県女性平和委員会主催 子供展実行委員会として準備を整えての開催〓天気予報では雨模様のはずが今朝は雲一つ無い日本晴れ〓嬉しい大はずれで、地元以外にも白川村や高山市内からも見えて大好評。未来を担う子供達の幸せこそが世界平和を生み出す原動力〓いかに幸福な子供達の環境を整えるか。それは大人達の責任。叱って育てるよりほめて育てよ〓自己肯定感のある子供達は人間関係も円滑とパネル展示で提示。 最終153名の方々がお忙しい中訪れてくださった。心に残った学生の詩 〓おやじ言いたい事があったら言えよ〓おふくろ言いたい事をそのまま言うなよ〓 だった。

2014年4月20日日曜日

嘘八百でした

深山奥山だより 4月20日0度 少しお休みしますと言うのは、書き込みができなくなるとの事でしたが、今のところ送信されました。もう少し頑張りますのでよろしくお願い致します。

少しお休みします

深山奥山だより 4月20日0度 少しお休みいたしますのでよろしくお願い致します。有り難うございました。ごきげんよう〓さようなら〓

2014年4月18日金曜日

深山奥山だより 4月14日マイナス3度 母の入院する高山日赤病院より満月近い月を見ながらゆっくり走る。後続車が三台。やり過ごそうと思い、更にスピードを落とす。突然日本鹿の群れ6頭が道を横切る。後続車が少し離れていたので急ブレーキをかけて止まる。胸をなで下ろして更に5分今度は4頭〓二度あることは三度あると言いながら上り坂になると立派な角を持った牡鹿がゆっくりと目の前を横切る〓今夜は11頭。初めての体験は瞬く間に町内をかけめぐる。日本鹿はどこでも増えていることを実感する。

2014年4月17日木曜日

大きいものが大好き

深山奥山だより 4月12日マイナス7度 寒い朝はよく晴れる。暖かい日はムサシ君達も活発に飛び回り、そして冷え込んだ夜には、ストーブの側に丸まって眠る。テレビで動物が映し出されシロクマが出て来ると突然に起き上がりテレビの前に〓頭を右に左にと動かしてじーっと見ている。ムサシ君は大きいものに反応する。あこがれなのか、闘争心なのか今のところ解らないけれどムサシ君はテレビまっしぐら〓

中虎

深山奥山だより 4月7日マイナス7度 今日は私達の結婚34周年、明日8日は義父88歳米寿のお祝い〓家族で外食して子虎になって帰宅すると、なんとムサシ君は中虎になっていた。参りました〓

かいつまんで

深山奥山だより 3月28日マイナス1度 ツバメ来る。少し遅れてキセキレイが、ようやく蕗の薹も顔を出す。 4月4日3度卯月 ウグイスの初音聞く。4月5日マイナス4度 雪が降る。都会は花びえ、荘川は雪の華。

子だぬきがやって来た。

深山奥山だより マイナス5度 毎年今頃になると子だぬきが山から食べ物を探して下りてくる。ボイラー室の中に何かがうずくまって眠っている。ムサシ君やクロちゃんはそれぞれの寝所でグーグー〓よく見たら子だぬきだった。気がつくと奥の物陰に隠れてしまう。二三日居候をしてどこかに逃げていった。ムサシ君達は平気な顔をしている。犬や猫なら大騒動になるけれど、子だぬきは黙認か〓なんとも不思議な関係だ。春ももうすぐそこまで来ている。

歴史は生き物

深山奥山だより 3月19日マイナス5度 帰雲城の歴史ロマンはまぼろしのままだ。この定説を覆す新説を唱える女性がみえる。歴史は生き物〓白山の真実ニューサイトを又御覧ください。

2014年4月16日水曜日

恐るべき偶然

深山奥山だより 3月18日0度 氏理が越中に出兵して四年、白川帰雲城は、戦国制覇の争いに巻き込まれていた。領民は、不安に包まれ、平和を願っていた。降伏したとはいえ、本領は安堵された。白川郷に四年ぶりで平和がよみがえるのだ。領民ぐるみの盛大な祝賀会が計画された。明日能興行〓明日とは11月30日のことだ。帰雲城内は、祝賀会、宴会、余興の準備でにぎわっていただろう。多くの家臣が城内でそれぞれ分担した任務をかたづけ、疲れ熟睡していた。亥の刻だとすれば、夜10時すぎごろ。寝入りばなである。マグニチュード8以上の列震が襲う。岩石が山津波となって崩れる。城内で、城下で眠っていた内ヶ嶋氏、家臣、住民は、眠りから目覚めるひまもなく埋もれたのかもしれない。佐々氏は恐るべき偶然と書いている。言葉にならない〓

2014年4月11日金曜日

深山奥山だより 3月17日マイナス8度 内ヶ嶋氏とは、敏達天皇から橘氏、楠氏、さらに楠氏から足利末期、内ヶ嶋を名乗った家柄で、市村家は、帰雲城の惨劇で死を免れた内ヶ嶋氏の末裔である。市村氏からの手紙にはその系図が書かれている。だが、内ヶ嶋三代、120年。初代為氏、二代雅氏、三代氏理、その肖像画もなく、人柄を示す逸話もなく、初代と二代目が何歳で、どんな理由で死んだか、いずれも、帰雲城とともにナゾである。内ヶ嶋兵庫頭氏理は天正10年から越中富山に出兵。天正13年まで約4年、越中に陣を張った。地元を留守にしている間に、金森長近が白川郷南部に進出。あわてて帰国してみると、ことごとく金森方になびいている。状況が変わったのだから金森に降参しなさいと、側近がすすめたと解釈すべきか。牧戸城主川尻備中守氏信が、飛州志によれば、帰雲城で圧死している。もし川尻氏で金森氏に通じたものがいたならば、後に金森氏に仕えた氏信の子勘平であろう。勘平は地震のとき、京都に遊んでいて無事
であった。父子ノ取リチカヘ成ルヘシと飛州志にある。と書かれている。

2014年4月8日火曜日

天生金山

深山奥山だより 3月16日マイナス3度 佐々氏は、四回目白川行きの帰りに白川村の北端から東への天生峠越を。今は亡き松古等さんのマイカーで天生金山へと行かれた。指さされた場所は奥飛騨横断道から、相当ひっこんだ山地にあった。いまは、とうに廃抗。あんな深いところに、戦国の世に、金山があり、鉱夫が働いていたとする。その人たちは、どこからこの奥飛騨にきて、どこで暮らし、生涯をまっとうしたのか。このあたりに集落はいまでもない。河合村と白川村の中間。この二つの村に、そんな労働力があったとは思えない。鉱夫たちは、どこからきて、どこで果てたのか。同行の児玉先生に伺うと、生きて帰れなかったかもしれませんねといわれた。恐ろしいところだ、飛騨は。私は小京都といわれる高山市に着くまで、天生金山のことが念頭を離れなかった。とある。余程の衝撃を受けられたのだろう。今は夏になると外来種の駆除作業に森林組合の人たちが汗水流している。

2014年4月7日月曜日

明暗を分けた。

深山奥山だより 3月15日マイナス9度 帰雲城崩落の翌日、つまり11月29日の昼頃、帰雲城のある保木脇で能興行が開催されることになっており、川尻氏信は、前夜から帰雲城に泊まった。荻町城主山下氏勝は、鳩谷から保木脇までは、三里しかないので、早朝たてば間に合う、朝たつことになっていて難を免れた。たったそれだけの偶然が、川尻と山下の暗と明を分けた。山下氏勝は、のちに尾張義直の側近に仕え、今日の名古屋城建設を家康にすすめ、飛騨の田舎武将から中央政界に雄飛する〓佐々氏は庶民らも、この天変地異には、運命の非常さを感じないではおられなかったであろう。と記している。

その時牧戸城主川尻氏信は

深山奥山だより 3月14日マイナス3度 白川帰雲城は、陸の孤島であり、天然の要塞。もし、地震がなければ、国道156号西側の丘陵地帯に、雄姿を拝むことができたかもしれない。白川帰雲城の崩落は、牧戸城にも伝達されたであろう。牧戸城は、勇将川尻備中守氏信がいて、東南の守りを固めていた。天正13年のその時、川尻氏信は、牧戸城はどうなったのか。この時氏信は帰雲城にいたために亡くなった。その息子は、京都にどういうわけか遊んでいて助かった。後で、金森長近に仕えている。と佐々氏は書いている。

2014年4月2日水曜日

交流があった

深山奥山だより 3月14日マイナス3度 越中と白川の間には経済的交流があった。庄川の上流、下流の関係があり、経済的に一つの圏をなしていた。白川は、魚、野菜、塩、米などを必要としていた。越中側は、まず杉などの木材、あらゆる種類の鉱山物、刀剣、機具類などではないか。私は、これらの資料をいっぺんに調べたわけではなく、何回か白川村を訪ねるうちに東京、名古屋の知人や図書館で、思い出すままに、少しずつ地震が史実であることの確信を深めていった。と書かれている。

越中国名跡志

深山奥山だより 3月13日マイナス1度 帰雲山崩落時、大地震が濃尾、京阪神地方を連続して襲っていた時期であった。京都、三十三間堂の仏像六百体が、いっせいに倒れた天正大地震と同じ地震で、帰雲城は亡びた。この時白川からどこか他国へ出かけていたものが四人いた、とある。災害の知らせを聞いて白川に戻ったら、淵になっていた、というのだ。淵とはいうまでもなく、せき止められた庄川が、埋没地点から上流に、巨大な湖となっていたことを意味する。日本地震資料によると、約二十日間だから、災害の直後に白川に戻ったのだろう。一方、これを裏付ける資料が、富山県側にある。越中国名跡志という郷土史誌だ。これは隣国飛騨で起こった惨事について記録した末尾に、富山へ物を売りに出かけていた人だけが助かり、いったん白川に戻ったが、どうしようもないので、富山にもどってきた、とある。

子孫がたくさんいれば

深山奥山だより 3月12日マイナス9度 なにか、災害があり、子孫がたくさんいれば、何百年、千年以上たっても、伝説のようなものでも、子孫はお祭りをする。ところが、白川帰雲城には断絶がある。世に伝えたり、あるいは、史実を事実として掘り起こしたりする原動力が、地域社会にない。いかに外部の研究者やファン、さらには野心家が騒いでも、世に普及するパワーに欠ける。掘るにしてもバックアップがない。そういう視点からも死角にあることをさとった。と佐々氏は書いている。対岸の火事のようなものか。ロマンのまま眠り続けている。