2014年4月2日水曜日

越中国名跡志

深山奥山だより 3月13日マイナス1度 帰雲山崩落時、大地震が濃尾、京阪神地方を連続して襲っていた時期であった。京都、三十三間堂の仏像六百体が、いっせいに倒れた天正大地震と同じ地震で、帰雲城は亡びた。この時白川からどこか他国へ出かけていたものが四人いた、とある。災害の知らせを聞いて白川に戻ったら、淵になっていた、というのだ。淵とはいうまでもなく、せき止められた庄川が、埋没地点から上流に、巨大な湖となっていたことを意味する。日本地震資料によると、約二十日間だから、災害の直後に白川に戻ったのだろう。一方、これを裏付ける資料が、富山県側にある。越中国名跡志という郷土史誌だ。これは隣国飛騨で起こった惨事について記録した末尾に、富山へ物を売りに出かけていた人だけが助かり、いったん白川に戻ったが、どうしようもないので、富山にもどってきた、とある。

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