2014年3月25日火曜日

供養の桜植樹

深山奥山だより 3月11日マイナス14度 佐々氏は三回目の白川行きを果たした。松古さんの便りで、大野富太さんたち保木脇の住民が、地下に眠る遺体を慰めるつもりで、桜の若木を災害の現場に植樹した、という。三百八十年前の地下に眠る被災者へ、慰霊のための植樹。再び帰雲城について語り合った。大野さんによると、城の場所は松古説とは逆に、国道の東側、私が、死の谷と仮に命名した盆地とみているようだ。大野さん方など三戸は、いずれも国道の、東側にある。盆地は、保木脇の小部落から百メートル内外にあり、おそらく、大野さん方などの住家も被災地の上に建てられたものだろう。親からのいい伝えで、埋まったことは聞いているし、間違いない。丘みたいな土の盛り上がったところ。山の崩れかたから、どうもあのへんに人家があったと思う。供養の意味で、桜の苗木を二十本植えた。しかし岩石と土砂のかたまりとうとうみな枯れてしまったという。庄川の広い河原に出る。庄川は、保木脇では東、帰雲山側の山のふもとに寄っている。国道は
西側の山のすそを走る。庄川の河原が広いのは、やはり災害のせいだと思う。佐々氏はこう書いている。3月11日災害は歴史の中で繰り返し起きている。ご冥福をお祈り申し上げます。

まぼろしの帰雲城

深山奥山だより 3月10日マイナス12度 何故いままであまり知られず、また、掘られなかったか。埋没したと言われる辺り、巨大な岩石が散乱し、倒木、雑木雑草のもつれている一キロ四方の現場を、どこからどう手をつけたらいいのか。とても、一人や二人でどうなるものでもない。第三の理由は単純明快。記録の不足、ゴールドについての記録である。天正十三年の災害については、多くの資料がある。地震があり、山津波があったことは多くの資料に記されている。しかし、帰雲城主であった内ヶ嶋三代の記録がほとんど存在しない。戦国時代に内ヶ嶋氏が、帰雲城にあって、金銀を含む鉱山物とどのようにかかわっていたのか。その肝心な点がはっきりしない。と当時の佐々氏は書いてみえる。

2014年3月24日月曜日

まぼろしの帰雲城

深山奥山だより 3月8日マイナス11度 3月9日マイナス12度 佐々氏は松古孝三さんと宿で帰雲城について話し合った。かえりくも、きうんとも言います。標高1600メートルぐらいの高い山です。南風が吹くと、雲が峰にぶつかって帰ってゆく。返雲と書かれた記録もあります。庄川の河原は保木脇のところで、変なふうに広くなっています。城は庄川の西側あるいは、国道の西側にあったとみられます。又合掌造りとの関連でもあきらかのように、今の白川文化は、江戸時代中期元禄ごろからのもので、被災してから百年近くたって、北陸側と美濃側から、ぼつぼつ白川に入植した。現に保木脇に住む大野さんらも、いわばよそもので、亡びた先住者とは関係がない。と書かれている。全く知らなかった。震災は忘れた頃にやって来る。

2014年3月22日土曜日

保木脇の住民

深山奥山だより 3月7日マイナス9度 佐々氏の本によると、保木脇に住んでみえる大野さんは語られた。帰雲城が埋没〓全て埋没した後は誰もいなくなった。現在の住人は私達はじめ皆その後移り住んだ人達だ。帰雲城がいつまでもまぼろしのまま解明されない理由の一つに皆全滅してしまった為に子孫がルーツをたどるという事がない。多くの人達が生き延びていれば必ずその子孫が歴史を掘り出すはずだ〓と又交通網が整備されていないために長年陸の孤島になっていたこともその理由ではないかと書いてみえる。なるほどと思った。どこかで生き延びた人達の子孫がいつの日か必ずや真実の歴史を解明してくださると確信した。

まぼろしの帰雲城

深山奥山だより 3月7日マイナス9度 白川村荻町で旅館を営んでみえる城山館は家族で真心のおもてなしをしてリピーターの方々も多い。宿の待合室に置かれていたまぼろしの帰雲城の本をお借りした。著者の佐々克明氏は最初朝日新聞記者として飛騨の民家、白川郷の切妻合掌造りを取材するために白川郷を訪れた。城山館の初代松古孝三さんに出会い帰雲城を聞いた事がきっかけでこの本が生まれた。あのドイツの建築家ブルーノタウト氏の日本美の再発見にも合掌造りの素晴らしさが書かれてあるけれど、松古孝三さんが26歳の時ブルーノタウト氏に会われたことは全く知らなかった。佐々氏の目と足で取材した帰雲城の言い伝えなど地元の方々との交流を通して得た情報を元に出来上がった本だ。真実の歴史はどこにあるのかまぼろしの帰雲城〓

2014年3月18日火曜日

月夜は楽しい

深山奥山だより 3月6日マイナス9度 春の月夜は素敵な物語がいっぱい。月を眺めているとうさぎが見える宇宙遊泳が見える。お花畑が見える春の夜はロマンがいっぱい〓

眠り猫

深山奥山だより 3月5日マイナス1度 再びかじり続けてかじり疲れて眠ってしまったムサシ君。ダンボールは再利用で近くの荘川中学校にまとめて持って行く。これ以上無駄なかじりつきはやめてよね〓ムサシ君。

かじり屋ムサシ君

深山奥山だより 3月4日マイナス13度 ムサシ君は最近ダンボールをかじって遊ぶことを覚えた。暇さえあればかじっている。二つ目のダンボールに挑戦中〓好きな形にしてご満悦。外はまだ寒くて出られないのでこんな遊びを始めたのかな〓早く春が来ないかな。

2014年3月13日木曜日

耳の日

深山奥山だより 3月3日マイナス3度 今日は耳の日でもある。義父母も実家の母も耳が遠くなり補聴器のお世話になっている。実家の母は脳梗塞になってから急に耳が遠くなった。テレビの音をいっぱいに上げて会話をするのにものどが痛くなる。嬉しいことに知人から補聴器を頂いた母の耳にインコのかりんちゃんのしゃべる声が聞こえた。カラスが鳴いた、水の音が聞こえたなど、日頃当たり前のように聞いているあらゆる音が母には聞こえていなかったんだとあらためて知った。補聴器の有り難さが身に沁みてわかった。私も声を張り上げて話さなくてもよくなりのどを痛めることもなくなった。知人に感謝感謝〓耳の日に感謝

何にも無い荘川で

深山奥山だより 3月2日マイナス1度 今日も釣り人が川のあちこちに車を停めてのんびりと渓流釣りを楽しんでいる。もう少し暖かくなったらご夫婦で見え奥様は蕗のとうや蕨採りなど山菜摘み、ご主人は釣りと楽しみもいろいろ〓自然いっぱいの荘川で一日くつろいで夕方帰られる。観光地を訪れるのもいいし、なんにも無い荘川で自然を満喫するのも又楽しい。寿命が延びるような気がするけれど、歩く運動量は田舎の方が少ないかもしれない。目と鼻の先に行くのにも車でつい出かけるから〓反省反省。

2014年3月9日日曜日

解禁日

深山奥山だより 3月1日マイナス1度 弥生 今日は待ちに待った釣り人達が朝早くから川に入っている 。気温も高めで解禁日は大盛況。橋の上から放流もしている。実家の隣のおじさんも漁業組合員として忙しくなってきた。毎年釣りに見えるお客様に惣則橋から今朝放流していたよ〓とお伝えしたら放流した魚は釣らないといわれる。荘川の流れの早い川で逞しく育った魚はひれが立派に発達している〓そんな魚を釣りたいと。そう言えば何年か前お店横に流れている小さな谷で捕まえた岩魚は大きかった。ひれも立派でつい見とれてしまった。岩魚の肌のつるりんとした滑らかさが又素晴らしかった。

2014年3月8日土曜日

湖畔の宿

深山奥山だより 2月28日マイナス2度 二月も今日でおしまい〓早いもので寒い寒いと叫んでいるうちにいつの間にか春がそこまでやって来ている。指折り数えているうちはなかなか来ないけれど、何かに気を取られていると早いものだ。先日楽しい座談会をした。五十音の書いた紙を配り自分に当たった文字から歌を歌うと言うもの〓みんなで探してけっこうあるものだなと思った。童謡歌詞が多い。らから始まる歌が見つからない。最後までわからなくて終わった。何日かして思い出した。湖畔の宿の二番に〓ランプ引き寄せふるさとへ書いてまた消す湖畔の便り、胸の痛みに耐えかねて昨日の夢と焚き捨てる古い手紙のうすけむり〓何故かお風呂に浸かっていて思い出した。一番が思い出せなくて二番が出てきた。記憶というものは面白いものだ。

2014年3月7日金曜日

見透かされそう

深山奥山だより 2月27日マイナス0度 ムサシ君がいつになく神妙な顔して見ている。なんだか見透かされているような気がする。悪い事は何もしていないってばあ〓そんな目で見ないでよお〓ムサシ君参った参ったわかったからその目で見るのはやめて。反省反省〓とみんなが正直に話してくれればそれでいいのにニャン〓

山野草の天ぷら材料が届いた

深山奥山だより 2月26日 マイナス10度 名古屋市内に住む知人から山野草の天ぷら材料が届いた。荘川はまだ深い雪の下〓大助かり。からすのえんどう、ヨモギ、春野げし、ハルジオン、かきどおし、ハコベ、タンポポ、ギシギシ、スイバ、など春の香りをいち早く届けてくださった。持つべきものは友〓有り難い。感謝感謝。

2014年3月5日水曜日

この冬はよお冷えたなあ

深山奥山だより 2月25日マイナス6度 少し春めいてきた。雪解けの音、小鳥の鳴き声、残雪を溶かす作業の音いよいよ春が近くなってきたと感じる音だ。土が見え始めると草の香りがどこからともなく春を運ぶ。積雪が少ない分凍みが強くて今年の冬は寒かった。よおー冷えたなぁが挨拶代わり。少ない積雪でも寒ければなかなか雪は消えない。解禁までに後わずか〓