2014年4月11日金曜日

深山奥山だより 3月17日マイナス8度 内ヶ嶋氏とは、敏達天皇から橘氏、楠氏、さらに楠氏から足利末期、内ヶ嶋を名乗った家柄で、市村家は、帰雲城の惨劇で死を免れた内ヶ嶋氏の末裔である。市村氏からの手紙にはその系図が書かれている。だが、内ヶ嶋三代、120年。初代為氏、二代雅氏、三代氏理、その肖像画もなく、人柄を示す逸話もなく、初代と二代目が何歳で、どんな理由で死んだか、いずれも、帰雲城とともにナゾである。内ヶ嶋兵庫頭氏理は天正10年から越中富山に出兵。天正13年まで約4年、越中に陣を張った。地元を留守にしている間に、金森長近が白川郷南部に進出。あわてて帰国してみると、ことごとく金森方になびいている。状況が変わったのだから金森に降参しなさいと、側近がすすめたと解釈すべきか。牧戸城主川尻備中守氏信が、飛州志によれば、帰雲城で圧死している。もし川尻氏で金森氏に通じたものがいたならば、後に金森氏に仕えた氏信の子勘平であろう。勘平は地震のとき、京都に遊んでいて無事
であった。父子ノ取リチカヘ成ルヘシと飛州志にある。と書かれている。

0 件のコメント: